雑記
ツイッターのよいところは全く異なる価値観を持つ人々を観測できることにある。
人口の多さは多様性に繋がり、良くも悪くも相互に作用し合う。
個人の言語化された独白は対面の会話ではなかなか明かされないため趣深い。
内容ありきと、他愛ない話、双方の会話を間接的に観察できるため、それらを見聞きすることでよりフラットな視点に近付く可能性を秘めている。
人口の多さは多様性に繋がり、良くも悪くも相互に作用し合う。
個人の言語化された独白は対面の会話ではなかなか明かされないため趣深い。
内容ありきと、他愛ない話、双方の会話を間接的に観察できるため、それらを見聞きすることでよりフラットな視点に近付く可能性を秘めている。
真実を語る時よりも嘘を並べている時のほうがその人となりの本質を暴くというのは面白い話だ。
嘘という一見ネガティブな属性を持つものが、文脈によってないし状況によってはポジティブな解釈ができることも含めて。
この逆説の構図はありふれたもので、例えばフィクションとノンフィクションにおいても同じことが言える。
フィクションはある種の嘘を語りながら、世界や文化の本質をよく映し出し、現実または真実を内包している。
それが意識的か否かに骨子はなく、ただ作家は何かしらの意図を込め表現をするので当然といえば当然なのだが。
話を戻して、知識のみ(真実のみ)の披瀝を美しいと見る価値観についても、私個人にしてみれば新たな視点だ。(自嘲的な皮肉の可能性も否めない)
というのもそれらは私にとって美(陽)の側面を持たない下品(陰)であるだけの価値観しか持ち合わせていなかったからだ。
同時にそれは自分の中にある価値観の矛盾―真実=善、嘘=悪であるならば、なぜ真実のみを語る知識の披瀝をネガティブ解釈するのか?―を顕在化させる。
ただその答えを私は持ち合わせていて、私自身が知識のみで会話を進めてきた過去を省みており、その姿が痛々しく見えるからである。
内容に重きを置く様式・姿勢から脱却したいのだ。
それは会話の本質が情報交換のみに留まらない側面を持ち、どちらかと言えば一般的には情報交換の比重は軽いことに気付き始めたからに他ならない。
しかし間違っていることだけは分かるが、その場の最適解は一向に不明瞭だ。
目的、内容のないコミュニケーション―雑にくくれば雑談、世間話などが該当するのだろうが―を苦手とする者たちの苦悩は尽きないのである。
何かについて語るとき、事象は複雑に絡み合っており、どの視点から見るかによって姿形を大きく変えるのだが、だからこそ自分がどの視点を用いているのかを自身が自覚し、定義しなければならない。
これらをより単純化すると、会話の内容に重きを置く人間から見て、一般的なコミュニケーションにおける不可解さとその手法について、どのような交流がなされ、どんな効果があるのか、またその目的はどこにあるのか?となる。
それについては過去に言及しているが、コミュニケーションの本質は挨拶と考えている、つまり敵か味方かを判断するものだという分析をしており、ここではそのように定義する。
しかし内容を重視しているとは言うが真にはただの敵味方判断(お前は議論に値する人間であるか?)であることは払拭できないのだが、であるならば手法が違うだけで双方のコミュニケーションは本質的には同じか、似た形をしている。
故に会話においてなにが高尚かを論じていること自体が奇妙な独り相撲をしていると思えるので、その滑稽さを俯瞰すると、そんな階層からは足を洗いたいと考えるのは自然ではないだろうか。
知識の披瀝を下品だと思う感情に至る理由がそこにある。(そもそも真実・嘘はそれ以上でも以下でもないのであり、また相反する概念ではないことを考慮した上で、善悪は個人の偏見に基づいている)
嘘という一見ネガティブな属性を持つものが、文脈によってないし状況によってはポジティブな解釈ができることも含めて。
この逆説の構図はありふれたもので、例えばフィクションとノンフィクションにおいても同じことが言える。
フィクションはある種の嘘を語りながら、世界や文化の本質をよく映し出し、現実または真実を内包している。
それが意識的か否かに骨子はなく、ただ作家は何かしらの意図を込め表現をするので当然といえば当然なのだが。
話を戻して、知識のみ(真実のみ)の披瀝を美しいと見る価値観についても、私個人にしてみれば新たな視点だ。(自嘲的な皮肉の可能性も否めない)
というのもそれらは私にとって美(陽)の側面を持たない下品(陰)であるだけの価値観しか持ち合わせていなかったからだ。
同時にそれは自分の中にある価値観の矛盾―真実=善、嘘=悪であるならば、なぜ真実のみを語る知識の披瀝をネガティブ解釈するのか?―を顕在化させる。
ただその答えを私は持ち合わせていて、私自身が知識のみで会話を進めてきた過去を省みており、その姿が痛々しく見えるからである。
内容に重きを置く様式・姿勢から脱却したいのだ。
それは会話の本質が情報交換のみに留まらない側面を持ち、どちらかと言えば一般的には情報交換の比重は軽いことに気付き始めたからに他ならない。
しかし間違っていることだけは分かるが、その場の最適解は一向に不明瞭だ。
目的、内容のないコミュニケーション―雑にくくれば雑談、世間話などが該当するのだろうが―を苦手とする者たちの苦悩は尽きないのである。
何かについて語るとき、事象は複雑に絡み合っており、どの視点から見るかによって姿形を大きく変えるのだが、だからこそ自分がどの視点を用いているのかを自身が自覚し、定義しなければならない。
これらをより単純化すると、会話の内容に重きを置く人間から見て、一般的なコミュニケーションにおける不可解さとその手法について、どのような交流がなされ、どんな効果があるのか、またその目的はどこにあるのか?となる。
それについては過去に言及しているが、コミュニケーションの本質は挨拶と考えている、つまり敵か味方かを判断するものだという分析をしており、ここではそのように定義する。
しかし内容を重視しているとは言うが真にはただの敵味方判断(お前は議論に値する人間であるか?)であることは払拭できないのだが、であるならば手法が違うだけで双方のコミュニケーションは本質的には同じか、似た形をしている。
故に会話においてなにが高尚かを論じていること自体が奇妙な独り相撲をしていると思えるので、その滑稽さを俯瞰すると、そんな階層からは足を洗いたいと考えるのは自然ではないだろうか。
知識の披瀝を下品だと思う感情に至る理由がそこにある。(そもそも真実・嘘はそれ以上でも以下でもないのであり、また相反する概念ではないことを考慮した上で、善悪は個人の偏見に基づいている)
しかし学習や造詣を深めることを目的とした講義に参加することやディスカッションの楽しさは否定しない。
むしろそれらが楽しくて会話をしているきらいがあるのだが、同時に情報交換こそが会話の本質であると盲信することの傲慢さを戒めなければならない。
むしろそれらが楽しくて会話をしているきらいがあるのだが、同時に情報交換こそが会話の本質であると盲信することの傲慢さを戒めなければならない。
内容とは言うが、心から求めているものはただ楽しい会話というごくごくシンプルな望みだ。
そうなれば、楽しいとは何だろうかとまた考えてそれらしい屁理屈を捏ねる。
そういえば、楽しいという感情にはひとつ、自分の力を自覚することというのがある。
知識を羅列することは手っ取り早く、相対的にある種の万能を感じさせ、自身を楽しませる手法に当たるのかもしれない。
ただ会話には相手がいるものなので、自分が楽しむことを求めるのと同じだけ相手を楽しませる方法を探っていくべきだろうと、考え至るわけだ。
と、ここまで便便と語る時点である程度の嘘を含むわけなのだが、どのように見えているのかは正直興味がないある。
本当のところ、現在は道徳心について学んでいる。
正しくは、道徳の正体がどこにあるのかを探しているというふうである。
数年前に社会学の方面から触れたので今回は心理学の方面から触れてみることにした。
見解、感想は気が向けば残そうと思う。
正しくは、道徳の正体がどこにあるのかを探しているというふうである。
数年前に社会学の方面から触れたので今回は心理学の方面から触れてみることにした。
見解、感想は気が向けば残そうと思う。
そして正直、興味はない。
―どうでもよい追記―
夢に出てきて覚えている単語を調べると自分が全く知らない映画だったりするのが不思議なのだが、どこかで見てるんだろうか。その時はマイナーなフランス映画だったのだが。またある日には鉄のドアに2CB(それまで聞いたこともない)と書かれた紙切れが貼ってあったり、「波の裏側を知っているか」だとか「弓だよ、蛇を捕らえるには待つことが重要なのだ」などと恣意的なことを言われたりする。覚醒と昏迷の狭間にいて無意識に触れている感覚が微妙にある。