読んだ本の感想と雑記

雑記を書き残すだけでは面白みがないので最近読了した書籍の感想(not 批評)でも書いておく。
商品リンクを貼る手間とアフィリエイト案内が蔓延しているのがダルいという理由で画像しか貼らないので、諸兄姉におかれましては各自検索していただきたい。

心労のあまり本を衝動買いしたものの2万円散財*してしまい、ここに書き散らすことで「元を取りたい」という(卑しい心による)アウトプット作業を挟むことで罪悪感を緩和するねらいがある。

*散財の軌跡


1.「運命」と「選択」の科学/ハナー・クリッチロウ著

若手の神経科学者が書いた本で、脳科学にも触れているのでそれらに興味がある人には勧めるが、造詣が深いとなると適さないインデックス本。
しかし前提知識のない人にとっては取っ掛かりとして面白い本だと思われる。
主に遺伝子が人間にどれほどの影響を与えているのかについて書かれている。
私がよく読む進化生物学のジャンルと扱う分野が多少被っているため真新しさはなかったものの、一部は新たな知見が得られた。

なかでも面白かったのは扁桃体の回路とその活性の生得的な差により個人の政治的信念が保守派かリベラル派に分かたれるという内容だ。
しかしこの事実はどちらの傾向を持つのかを生得的に運命づけられているということにはならない。(文化や環境の干渉を受けることも含め、多方面から検証の余地があるが、一方でこれらもひとつの事実としてある)
内訳は人が脅威に晒されたとき扁桃体が「逃走」と「闘争」を指令し、扁桃体の感受性によって瞬時にどちらに判断を下すかが分岐しているというのだ。
ちなみに保守派のほうが感受性が高く、脅威を敏感に察知し防衛本能が強く出やすい。

このトピックについてもっと詳しく知りたいなら読んでくださいと言えないのは、このように一部書き出しただけで扁桃体に関する記述は大体カバーしてしまっていることが挙げられる。
このように扱うものが広く浅いのだが、興味の湧いた事象に対し、より深く掘れる人物や書籍(ほぼ未翻訳であるが)を著者が紹介しているのでそちらを掘るしかなさそうだ。
あとはインタビュー形式という構成は普段こういった書籍を読まない人にとって易しいものだと感じる。(個人的には人の情緒が含まれると散らかっていて好ましくないのだが)

今回購入した中では勧められて手に取った唯一の書籍であり、であれば好意的な感想を残すべきなのかもしれないが、私は自由意志について論じることに大した興味がないし、この本の扱うテーマ自体は履修済みである。
出版が去年の3月ということもあり、最新知識という意味ではどこまで議論が進んでいるのかを見るのにはよいと思った。

生まれか育ちかという普遍的テーマを内包しているが、そこについて首尾一貫して慎重である姿勢は誠実で好ましいと感じる。

この書籍自体は全体的に(主観的に言えば)薄味で仕上がっている。
俯瞰的に見てこれはサピエンスの習性――情報自体を記憶するのではなく、情報のありかを記憶する――を反映しているため論じているテーマに沿った「運命」の制約をかなり受けている部分はメタ的に面白いと思った。
これは本の端を折ること――Dog-earsと呼ぶらしい――に似ている。


――余談――

ジジェクの本は数ページ読んだだけでメチャクチャ面白かったので期待している。
私個人がジジェクを好ましく思っているバイアスもあるのだろうが、性という俗物を一旦軸に定め、より触れやすいフォーマットで哲学を展開しているように見えた。
これの感想を残すとなると前提知識の共有からして途方もない文字数になるので書くかは未定である。

最近はCOVID-19を主軸に置いて理論が展開されている書籍が散見されるのだが、食傷気味でうんざりする。
そんなものはメディアにやらせておけばいいと思うが、今最も旬なトピックと抱き合わせると新規の読者層が獲得できるのかもしれない。
これは一例に過ぎないが資本主義にならった商業展開によって物事が画一化されていくことは退屈でならない。


――雑記――

自分がどうなりたい、どう在りたいのかは常に考えている事柄ではあるが、それを社会やソーシャルメディアに置いたとき、他者からどうであるかという部分については結局のところ見えてこなかった。
私自身も自己顕示欲の赴くままに発信してきたが、そこは人によって様々な狙いがあるのだろうし――普遍的なものとしては有名になりたい、金銭を得たいとか――そういうものが私にはなかった。

当然、自己顕示欲にはサピエンス的な本能が絡む――私は有用な人間であるため、生かしておく価値があるのです――のだが、それとプラスαの欲求が別のところにあるように感じていた。
その感情自体も幻想である可能性は大いにあるのだが、さらに言えばそれらを含んで、それ以上に何を求めているのかということが論点だ。

ここまで書いて、社会的にどう在りたいか以前にそれらに何かを求めているらしいということを知覚した。
それでいえば他者からの能動的な消費(便宜上そのように表現する)――より明示的にするとサイトを訪問するという能動的な行為――であると推察する。
ツイッターのような受動的ソーシャルメディアでの消費では私には不十分なのだろう。
自身がマジョリティ側ではないことを自覚しているので、排斥の恐怖と抵抗が常にあるように感じる。
ただそこにいることだけでは十分な社会的繋がりを知覚できないことが要因としてあるらしい、と考えられる。

こうやって一度考え出すと堂々巡りを繰り返して自身の出口のない理論に溺れてしまう。(私はこれをメビウスの輪と呼んでいる)
それでも行動しないことには何も分からないままであるため、それでここを立ち上げてみて差別化――ある種の狭義化――を試みたのだが、そのことによって明確に何かが得られるとは期待していない。
ただ前述したように差別化の目的はわずかに明示され、この行動原理の根幹が多少は顕在化したわけで、これもひとつの学びだろう。

ユーザの流動は恐らく1%にも満たないのだが、実際にそれだけあれば十分であることは過去ブログで検証済みである。
誰もいなくても、ただ何かを表現することは許されたいという願いと、何とか繋がりを保っていたいことが目的にあるのかもしれない、とだけしか現状は言えない。

存在の哀しみがあって、世界(この次元、宇宙)自体が、どうしようもなく馬鹿げていて、それはひとつの事実として受け止めるべきだろう。
しかしだからといって何もしないことにはならないのだが、馴れ合いをするために何かをしたくはない。
ありのままでいることを許容されていたい。

それでいえば表現について一定の歩み寄りは展開するが、一方で私にはマジョリティ的な視点で物事を視ることができないのだと――模写を通じて――感じた。
であれば自身の世界を尖らせていく方が理にかなっているように思う。