表層を舐めるだけの文学談話

フォントをいじってこの記事だけさわらび明朝にしました。
可読性ではゴシック体に軍配が上がると考えているのですが、たまには明朝体にでもしてみるかという試みで、そのついでといってはなんですが敬体をとります。
しかし対応文字が限られているようで、ところどころゴシック体に直されていることは残念です。
それはそれとして多様な媒体で文章を書き起こしてきましたが明朝体を導入したことはなく、そのためどのように映るか楽しみではあります。
文学について述べるには、此れはおあつらえむきではないでしょうか。
ランボオ/小林秀雄訳の誤訳問題が一部界隈で湧いているため、流行りに乗じて私も書いてみることにしました。

いまさらランボオなんて、今日日フランス文学、詩愛好家ぐらいにしか読まれてなさそうなものですが――かくいう私もフランス文学愛好家であるため相違ない――広大なネットの海には目を通している新世代がちらほら見受けられます。

さて本題ですが、まず小林秀雄氏が誤訳と評されることには、ごくごく初歩的な文法的間違いを犯していること、総合的な訳の杜撰さが批判の主であるように思いました。
また、かの有名な「地獄の季節」についても訳題自体が正しい表現ではなく直訳すれば「地獄に於ける或る季節」となる、ようなのですが、これに関しては小林氏も出版時に認知していることから敢えて論じることもないのではないかと個人的には思います。
それに加え、氏の業界での文学的評価は高く、この批判がどれほどの熱量で論じられているのか、正確なことはわかりません。(私に可視化される範囲はどうしてもエコーチェンバーが干渉してしまうので、双方の訳を楽しみ、好意的に受け止める意見が多い)
私も「地獄の季節」は氏の訳で読んでいて対訳の存在を最近知ったという体たらくで、ゆえに「もう小林秀雄訳は読まない」みたいな感じではないんですよね。(ちなみに「対訳―ランボー詩集/岩波文庫」は2020年に出版されており、私が地獄の季節を読んだ時点では未出版)

個人的に「地獄の季節」に関しては小林氏が文学として昇華した詩自体に(
訳の正確さに欠けるとしても)仄暗い美しさを見出しているため、批判は当然受け止めるにしても「地獄の季節」がより高解像度になったことには喜びを感じます。
はじめから小林氏ではない翻訳者によって正確に訳されていた場合に、「地獄の季節」に同じように魅力を感じていたかどうかは正直なところわかりませんが、それはそれとして対訳はかなりいいです。
英訳されたランボオを読んだときよりもいい体験でした。
そもそも特定の言語を別言語に訳する際に"正確さ"とは何か、そのテーマ自体が難しいように思いますが、今回の論点は初歩的な文法上の間違いについてなので対訳があって嬉しく思います。
まあ、これらの所感は初めて読んだ訳者のことばを親のように慕う気持ちによる偏り、という部分も否めないのですが。

詩や散文というジャンルでは――乱暴に言えば――書かれている内容自体に意味が宿っているとは考えていないため、個人的に専門書よりは文章の正確さや内容の優先度が落ちるんですよね。
それは詩や散文を読むとき、散りばめられたワードを拾うとき、その瞬間の心のゆらめき、ダイレクトに感情や情緒に作用する感覚、詩をいわば体験と考えているがゆえかもしれません。
人は言語の縛りにより
感情を意図して記すことはできないものですが、一見意味のなさない言葉の羅列に触れるとき、不思議となにかに共感できたりするもので、まさにこの無意味なことばのつむぎが感情を記しているのではないかと、その可能性を感じるわけです。

便便とオチもなく語りましたが、なにが言いたいのかといえば、地獄の季節を読んだことがない方、読了された方も対訳と併せてもう一度、読んでみてはいかがでしょうか。



蛇足
明朝体、目がチカチカする上に目が滑るんですけど、どうですかこれ。
今後使うか問われたら「誠に遺憾ですが」という枕詞を置いてゴシック体を選ぶと思います。
…いやでも、小林秀雄訳の勢い、良すぎる。