映画感想やら近況やら

勧められたのでノー・シャークを観た。
巷では純文学と評価されていたそれを、その通りのプレゼンを受け、アマプラでわざわざレンタルした。
頭の中がうるさい感覚がわからない人には新鮮味があるらしいが、私自身が頭の中がうるさいタイプなので真新しいものはなかったが、概ね思考の流れ的には似ているので自身の思考とその連続性を俯瞰して見ることができたことは良かった。


作中の表現が詩的であることが文学作品を思わせる所以であることは理解できたし、それを踏襲して好きなフレーズは何かと問われることもわかる。
ただ、この作品においてはどこかのフレーズを切り取って消費することは適さないように思う。
というのも、頭の中がうるさい人間には周知の事実であろうが、思考のアウトプットがメインであるこの作品においての重要な要素は連続性だ。
つまりはどこかのフレーズを切り取ること自体に意味はない。
好きな場面について評価することはあってもフレーズ単位で評価することは的外れということだ。
映画の内容に触れるならば、ASD傾向のある世間知らずのティーンの女が斜に構えて見る世界を淡々とノベルゲームのように鑑賞していくものだ。
そういえば、劇中に主人公のそばで佇む中年男性が映るシーンがあり、勧めた彼はあれをパラノイアと解釈したらしいが、女の身を持っていればあの空気感はリアルなものであると訂正しておいた。(どうも男体を持つ人間は自身の脅威性について全く関心がないケースが多数見受けられる)
警戒と自衛を被害妄想だと切り捨てられるのは我慢ならないことだろう、淑女諸君。
とりとめもなく書いたが、頭の中が静かな人間には面白く観られる映画かもしれない。

その流れでロードオブカオスも勧められたので観た。
ノー・シャークといい、どれもこれも若さと青さがふんだんに散りばめられた映画だった。
どうも勧めた当人は「死に魅了される人々」について知りたいようだった。
私はその人とそれなりに長く交友を続けているが、デストルドー(死に向かう欲求)が全く見えてこない人物として映っていたため、ようやく死について興味を持ったのかという所感を得た。
しかしどう言葉を尽くしても、リビドー(生に向かう欲求)の強い人物に死に魅了されることを理解してもらうことは難しいだろう。
ロードオブカオスでは実在するブラックメタルバンドの自伝が描かれているが、ボーカルが腕と喉を切り裂きSGで頭を撃ち抜いて自殺する描写がある。
それについて彼の所感はいくら死が魅力的でもそのように死ぬのは御免だ、ということらしい。
そこに埋められない差を感じる。
素晴らしい人生を築くことは死を彩るための華であり、その花が美しいほどに、絶対的理不尽な暴力である死が輝くのだ。
その際には相応の痛みがあった方がいい、その方がドラマチックで生きていたことを相対的に強く感じることができる。
これまでの人生がどれほどくだらなくても死を完璧に遂行した事実は我々の魂を救うだろう。
それらの思想は決して後ろ向きなことではなく、最高の死について考えることは最高の生について考えることと等しい。

前述したそれらが人に伝わらなくてもいいと思っているところ、謂わばコミュニケーションに対する諦めがあり、もう少し期待値を高めるべきなのか、考えあぐねている。
思えば私は全くまともなことを喋ってはいないようで、その内訳は皮肉、冗句、おふざけ、真意と真逆のことばで占められている。
さすがにありがとうや嬉しいなどはその通りに伝えているものの、それ以外はからっきしである。
思い返しても期待値の高さを表した皮肉的表現がただの嫌味として受け取られたことは失敗だったし、それについては詫びる。
人間ならば言葉をもっと自由に使えるはずだ、言葉遊びくらいやるだろう、不謹慎と倫理の狭間を綱渡りして、面白い冗句のひとつでも言ってみろ、リスクを犯さずして最高を手に入れることはできない。
そうやって自身の攻撃性を隠さないところがコミュニケーションを難しくしている。
人としばらく話さないとすぐこうだ。
反省はしていない。