日記
信仰とは仰々しい言葉ではあるが、人はうっすらと何かを信じながら生きてるわけで、それは「明日は必ずくる」みたいな確実性の乏しいものを信仰していることと同じような話なんだけど、それで私は何を信仰しているのかっていえば運なんだよね。
事実としてこの世には乱数があって、ある程度の確率は数式で導き出されるわけだけど、特定の値に入れるかは運だと考えている。(それこそ明日も生きていられるかは運次第なように)
自分の中に信仰する神(という概念)を挙げるなら、運が神なんだよ、私の中では。
だからといって何もしないわけじゃなくて、宝くじは買わなきゃ当たらないように、運を掴み取るための努力をしたうえで、結果は保証されていないことを受け入れてる。
その努力は何かといえば、一般的にセレンディピティ(Serendipity)ー偶然にものをうまく見つけ出す能力ーと言われるコレを高められるように、様々なことに好奇心をもって知ることだと考えてる。
もちろんそれ以前にまず自分の能力を信じているし、価値基準は自分であると常々言ってるわけだけど、ただ、複雑に絡む事象の前では自分の能力どころか存在自体が容易に覆されてしまうこともある。
だから最大限やったけど、それでもダメだったらもう、運が悪かったと考えることにした。
精一杯やったけどできなかった時は、自分の努力が足りなかったと自罰的になることも、誰かが悪いと他罰的になることもやめて、ちゃんと諦めるべきなんだよ。
考え方を変えると誰かや何かに本気で苛ついたり嫉妬することが激減する。
逆にうまくいった時は運がよかったんだと考えると、自然と誰かを見下したりすることもなくなる。
べつにこれを誰に強要するつもりもないんだけど、そういう意味で、運は自分の善性を保ってくれる道徳的懲罰神なんだよねって話。
ブログくらいは書けって言われたから、まあどうでもいいことでも書いておこうかなと思った。
twitterから離れたのはさ、絵と人格を結びつけられるのが嫌だったからなんだよね、つまりね、絵が描けるからって相応の人格が備わっている人間ではないってことだよ。
どうでもいいつぶやきにイイネがついて、まるで自分のすべてを肯定された気になってしまうのが恐ろしかったよ。
自意識におぼれて、客観視ができなくなったらと思うと、そういう風に狂っていく可能性があるなら、正気を保っているうちにさっさと消えたかった。
ただ、それだけのことだったんだよ。