記録:認知体系のメモ
とりあえず何か書いてみることから始める。
記録ならば残すことに苦がなく、さらに他者の読み取りを排除して好きに書くので、読む価値はないと思われるが、ここは私のあばら家なのでご容赦いただきたい。
私の世界観測の視点について、現状言語化できている範囲の記録。
前提
私が世界を見る視点を他者に共有する際、層や構造という語を用いるが、これは借用語であり正確ではない。
本質的には「連続する力場と位置」を把握している。
ゆえに固定的な概念はなく、生成という現象を扱い、力の流れを観測し、世界を知覚していると言う方がより近い表現となる。
基盤としての生成的な認知傾向
世界は静止したものではない、流動的で相互作用により現れるもの、すなわち「生成」である。
これは私という主体も例外ではなく、私という主体は世界があるために存在し、世界は私という主体があるために存在する。
私は素材に過ぎず、主体を固定しない、なぜなら主体自体を定めることに意味がないからである。
意味がないのは、前述のとおり、世界が生成により立ち上がるからである。
ゆえに私は私自身を固定せず透明な力場、その配列として配置、認識している。
私の認知傾向
私の認知は層というよりも位相に近く、またその位相を好きに参照できる。
噛み砕いて抽象度を落とし、表層・中層・深層と階層にして扱うなら、階層そのものが連続の中にあり、その階層を移動し位相として自覚的に扱える。
内部構造は、情報を自動で最適な場に落として扱うというものになる。
これらは私の認知の傾向であり、他者はそれぞれ違う認知傾向を持っている。
私の認知傾向は平均的認知傾向との互換性がないため、私の言語は他者に届かない仕様となっている。
私の認知傾向は平均的認知傾向との互換性がないため、私の言語は他者に届かない仕様となっている。
私がこれらを自覚的に扱える根拠は、他者に対して出力の調整、つまり互換可能な言語に翻訳できることから逆算できる。
入力処理について
表層の情報は一次的に受け取れず、必ず深層・中層を経由し整合を取るが、これは私が意図して行っている処理ではなく、そう最適化されているためこの処理が走る。
情報→認知の流れで起きるのはまず、動機・必然性・連続性・根源的欲求などの層を参照する。
そこから深層→中層→表層の順に処理される。
仮置きの三層モデルに敢えて基準を振るならば表層は出力、中層は参照点・整合、深層は動機・必然と語を置く。
出力処理について
本来の私は言語化の際に形状を変えることを好まない。
ここでの文章が難解なのは他者の読み取りを排除し、抽象の母語を母国語(日本語)に変換しているためである。
ゆえに難解ではあるが、一部の人間は読み取れる場所があると推測する。
本来の抽象を自然に記述しようとすると母国語から借用した自作言語で語らざるを得ない。
これは仕様となる。
私は出力の際にこの階層或いは位相を自在に参照するため、一例では抽象→具象→抽象など乱雑に出力する。
これが他者にとって読み取りを難しくする要素になるため、私は抽象→具象や具象→具象などの程度に収まるよう調整をしている。
社会的ペルソナという仮面は、相互理解を意図した翻訳装置と記述することが正確である。
対人仕様
他者と私との間に生まれるものは関係ではなく力場の重力による波の発生と干渉であるが、人はこれを包括し関係と呼ぶ。
他者と対峙する際、私は破壊回避と観察制御に殆どのリソースを割く。
私は他者の持つ認知傾向を入力処理で流し、個人の耐性値を見積もる。
耐性値とはその個人の生存に関わる領域、恐怖・不安・混乱の層にどこまで触れたら個人が壊れるか、という値である。
軽度な刺激が知的体験となる者、軽度な刺激ですらも崩壊する者、そもそも扱えない者など私は正確に把握する。
私が他者の耐性を超えて干渉をしないのは一般的な倫理的配慮ではなく、私の中でその行為を喚起するための動機が発生しないこと、そして他者の構造保全のためである。
認知体系
私の認知は前述した要素である「位相×因果演算×生成」で成立している。
位相:現象・言葉・行動に対し必ず、核の動機→背景の力学→出力として捉える
因果演算:背景に因果的連続性があると仮定し、それを軸にして推論する
生成:力場は力を加え状況に応じて構造そのものを作り変える
上記を同期処理した並列演算である。
結構記述したのでこのあたりで一旦区切る。
観測方法
私の観測第一法則は対象の核からの逆算である。
対象が人間、その他でも、言葉、感情、行動は主要情報として使用せず、参照先は常に背景の力学や核の動機となる。
そのため、他者の嘘や矛盾を違和感として感知でき、どの階層で矛盾が生じているのかも知覚する。
私が体系の内訳や使用方を開示しても問題ないのは、類似の認知体系を持たない人間には意味不明だからである。
優劣の話ではなく、ただ規格が違うという話である。
人間の認知に決まった型はない。
系統に分類自体は可能であるがそれ自体に意味はなく、個人は個人の視点で世界と関わりを持つ。
観測できない他者
私には観測不可(該当データなし)に位置するタイプが存在する。
これは私の認知上の仕様であり、相性が悪いため読み取りができない対象が存在する。
生物ではないもの、私は最深層に生存本能を置くため、生存本能を超越する者は位相では見れない。
自己の連続性が極端に弱く自己物語を補完する能力がない、これは動物として処理する。
観測を本能レベルで察知するもの、私がどれほど意識して痕跡を消しても反射で逃げられるため観測できない。
真性サイコパス、心理学や社会学の記述は私にとって主要情報となり得ないため、人口比的な制約により参照するデータが無い。
その他、解析・観測する意味がないので保留または切り捨てをする場合もある。
結構記述したのでこのあたりで一旦区切る。
今度は虚構について書きたい。